釜石の叔父

震災から一か月少々経過しました。

先日、被災した仙台空港が再港しました。

わずか一か月余りでの復興に、諸外国のメディアからも賛辞の言葉が投げられています。

 

 

震災後、安否が心配だった釜石の叔父が訪ねてくれました。

 

叔父は市内で歯科医院を開業しており、震災当日も普段と変らず診療していたそうです。

地震の後すぐに診療室から出て、町の様子を伺っていたそうです。

玄関先では地域の方から「先生、避難しないのですか?」と声をかけて頂いたそうですが、「大丈夫でしょう。」と高をくくっていたようです。

その後、消防車がけたたましくサイレンを鳴らしながら、高台へ避難するよう呼びかけているのを目にしたそうです。

港方面に勢い良く向かっていく消防車を見て「これはただ事ではないのでは・・・」と感じたそうです。

その光景から胸騒ぎを感じ、サンダル履きのまま裏山(薬師公園)へと向かったそうです。

 

 

薬師公園へと続く小道は避難者で立錐の余地もない鮨詰め状態だったそうですが、幸い叔父は津波の難から逃れることが出来たそうです。

しかし残念ながら被害に巻き込まれた方々のお話になると、顔からは血の気が退いて行きました。

「文彦、俺は70数年生きてきて、こんなに怖い思いをしたことはないよ・・・。余震は精神的にも応えたよ。」と消沈しておりました。

診療室も診察台が一か所に押し流されており、診療どころか生活さえ出来ない凄絶なさまだそうです。

私は叔父のこんなにまで憔悴しきった姿を拝見したことがなく、本当に辛い思いをしたのだと感じました。

 

叔父の3人の子供達(私の従兄弟)は東京で家庭を築いているため、生活の拠点は移していないものの、現在は安心です。

でも叔父は先だった叔母が眠る釜石で余生を送りたいと申しております。

 

 

 

 

私が歯科医師を志すきっかけとなったのは叔父の存在です。

叔父の診療室にある技工室が遊び場のひとつでした。

毎日沢山の患者さんに囲まれていた叔父の姿に、頼もしさを感じていました。

 

 

当日は「歯の按配が良くない」と私の診療室で治療を受けて帰られました。

 

果たして私はどこまで叔父に近づけたのでしょうか・・・。

 

 

 

 

震災地の早急な復興をお祈り致します。

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