震災によせて。

東日本を襲った震災に際し、ご家族やご友人からのご連絡をお待ちの方も沢山いらっしゃることと察します。

皆様がご無事でありますことを深くお祈り申し上げます。

 

 

私は東北には大変馴染みが深いです。それは母が東北の出身だからです。

 

母の故郷は岩手県釜石市。

港町の釜石は、新日鉄釜石率いる社会人ラグビー部も常勝としてその名を世に広め、「鉄の町釜石」としても栄えました。

毎年の飯野家の成人式は、国立競技場で開催される「ラグビー日本選手権」を観戦することが恒例でした。

もちろん新日鉄釜石ラグビー部を応援するためです。

父もラガーマンであったこともあり、大学入学後にサッカーからラグビーに転向したのもこの恒例観戦の影響なのかもしれません・・・;)

 

 

母は6人兄妹の末っ子。女の子ひとりでした母は、祖父が大変可愛がったそうです。

そんな母の故郷「釜石」に私は、小学校を卒業するまでは毎年の夏休みと冬休みの一か月程を過ごしていました。

 

 

私は小学生の時、学校を代表する水泳の選手でした。(プチ自慢)

選手のほとんどはスイミングスクールに通う生徒でしたが、私は「三陸の荒波」が先生でした。

リアス式海岸の三陸の海は、岸辺から20mも進めば頭まで沈みます。

波は岸辺では激しく叩きつけていますが、沖に出るととても和やかでした。

しかし沖底の水温はとても冷たく、岸辺と沖合のギャップは肌で感じられました。

祖母の口癖は「文彦。盆過ぎたら、海さ入ってはいげねぇ!」でした。お盆を過ぎると水温が著しく低下するからです。

三陸の海は優しいさと怖さを兼ねていると教わりました。

 

 

今回の震災は冬の冷たい荒波が牙を剥きました

 

釜石在住の親戚は二人の伯父と一人の叔母。それと二人の従兄妹。併せて5名。(幸い叔母は高台の病院に入院中で難を逃れます。)

 

震災により港町釜石は、すべて水没しました。

警察、消防署、学校、役所。NTT Docomoの基地局も同じでした。

結果、釜石は陸の孤島となったのです。

したがって、親戚4名とは連絡が取れない状況が何日も続きました。

 

そんな中、父母と交流のあった患者さんや、母が釜石出身だと知っていた旧友から励ましの声やメールが届きました。

これはどんなに勇気づけられたことでしょう。

<特に私の中学・高校・大学の友人と作っている集いの会のメーリングリストは状況伝達や励まし、慰めなど、とっても温かかったです。>

 

震災から一週間が過ぎ、すべての親戚の安否確認がとれました。

ご心配下さった方々に親戚の無事のご報告とお礼を申し上げます。

 

 

でもハード面もソフト面も復旧はこれからです。

にもかかわらず東京では終わらない過度な買いだめと、自粛へのネガティブな反応が見られます。

 

私は依然として出来ることをすすめております。

 

 

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